ゆるふわ日記

ゆるふわだよね。

きみ

 

 

    フォークがあって、その四つある先端のうち、いちばん右側の先端で、とうもろこしの粒をひとつずつ刺して、ひとつずつ食べるきみがある。きみといったら肉塊の、その牛だか豚だかの肉塊の、その上に乗っかってる、というかもたれてる、というかだらしなく寝転がってる、それもきみなんやろ。目ん玉みたいでなんだかきみ悪い。きみの目ん玉はかわいいよ。いや目ん玉みたいなんがきみなんやけど。きみの目ん玉はくりくりしててかわいい。きみみたいにかわいい。いやそのきみはきみ悪いけど。いやきみは悪くないよ。きみは目ん玉がよく動くよな。目ん玉、器用に動かす才能があるんやろな。その黒目の、黒くないところ、黒くないとき、ちょっと太陽が落ちてきたとき、すっごく綺麗な色してる。おじいちゃんちの本棚、数十年ぶりくらいによく擦って磨いて白熱電球、反射するくらいまでしたときの色みたい。きっと高い木、使っとんのやろな。きみの黒目は白目の上、泳いでるみたいによく動くよな。泳ぐゆうてもマグロみたいなのちゃうくて、なんやろ、アメンボみたいな。いや、アメンボってあれ泳ぐっていうんやろか。まあ、フライパン揺らしたときに、フライパンの上で揺れるきみみたいな、そんな泳ぐきみの目ん玉、綺麗やけどちょっときみ悪い。

 

 

 

終夜列車が降る

 

 

 

 

    終夜列車が降る。透明な瓶の透明じゃない部分で惑星を叩く。雨は少しあなたを濡らした。月は路肩に落ちている。別れがあなたの口から漏れた日に。終夜列車は降った。わたしをすこしかすめて。空のずっと向こうの方から。ただ無数の悲しみを連れて。消えることだけを決意した日に。終夜列車は降った。

降りそうだ

 

 

 

てるてる坊主を育てていたんだ。水槽の中で。でもね、死んだよ。あいつ、泳げなかったんだ。水槽の中で溺れ死んだ。たぶん呼吸ができなかったんだね。そしたらね、降ったよ。やっぱり降った。あいつのせいだよ。死んじゃえばいいのに。もう死んでるんだけど。

 

 

降りそうだな。

 

 

遠くで聞こえる雨の音。きみは遠くで聞こえる雨の音を知ってる? ぼくは知ってるよ。美しいものさ。いや、美しいものとは、遠くで聞こえる雨の音なんだってさ。そう。遠くの雨の音。美しいだろ。じゃあさ、きみは聞いたことあるかい? 遠くの雨の音を。ほらね、やっと気が付いた?

 

 

きみはいま部屋の中にいる。あたたかい部屋さ。ベッドもあって布団もある。きみはそのぬくもりの中でまどろみに包まれるんだ。すると聞こえてくるだろう? 遠くの雨の音さ。水滴が落ちてきて砕ける音さ。そして美しいものを手にするんだ。そこできみは想うだろう。ああ、遠くで雨の音が聞こえる、ってね。

 

 

なんだか降りそうだ。ひとりぼっちの帰り道。悲しくて寂しくて、どうしようもない気持ちになった。そうしてイヤホンで耳を塞いだ。だけどどうしてだろう、悲しい歌を聴きたくなったんだ。降ってきた。降ってくる。ぼくは傘を空に向けて開いた。水滴はぼくの上に落ちてくる。ピアノの音の切れ間から、雨粒が弾ける音が聞こえてきたんだ。その時ぼくは想ったよ。遠くで雨の音が聞こえるな、って。

 

 

てるてる坊主を育てよう。いつかのぼくらの救済のために。理由もなく泣きたいときのために。ぜんぶ雨のせいにしよう。でもねいつかぜったいに、水槽の中を泳がせてやるんだ。

ゆるふわ日記です。

 

 

    十二月。肌を突き刺す冷気。やる気のない太陽。ただ悪戯な風。でかい犬。首のあたりを紐で繋がれた二匹のでかい犬。金色の犬と白い犬。裸で裸足で寒くないの不思議。煙突から出て天に達して空を覆った煙。太陽の死。落ちる雨粒。傘を開く通行人。傘を開かない通行人。傘を持たないでかい犬。目の下くらいまで深くフードかぶってる人。ヘッドホンの中にある誰かの詩。誰かのピアノの音。太陽の詩。雨を望む人。雨が降ると人はお別れの言葉を言うの不思議。天気によって変わる気分。雨に溶かされるわたがし。雨に溶かされるわたがしみたいな気分。

 

    焼きいも売ってるおっさん。かわいい女の子だったら買ってた。ポケットに小銭は入ってない。じゃがいもなら入っているけど。でっかい犬のお散歩。連れて歩くならあの白いやつ。渋谷の忠犬は雨の日でも駅前に鎮座。裸の男女。とっても愉快な男女。大きな声で楽しそう。クリスマス前の喧騒。でっかいトナカイのお散歩。引かれて飛ぶなら綺麗なあいつ。立派な角が素敵。そこら中カラフルな電球。ちかちかしてちょっとまぶしい。焼きいも売ってるおっさん。お店の前はちょっとあったかい。かわいい女の子だったら買ってた。

 

    こんばんは。ゆるふわ日記です。

    

正義の完成

 

 

    春を札束に変えた女は乳母車を線路に置いた。一瞬の虚構の快楽によって創造された忌わしい物体を一瞬のうちに無限の快楽へと変えるためだ。乳母車には最上の装飾を施した。花柄模様の布を取り付け、中には色とりどりの花を丁寧に置いた。絶えずいい匂いのする幸福な籠だ。女が最も大切にしていた豪華な燭台も置いた。そして美しい硝子をたくさん詰め込んだ。簡単に割れてしまいそうな色彩硝子や薔薇色のや、紅いのや、青いのや、魔法の硝子、天国の硝子を。その上に唯一、醜く忌々しいその物体を乗せた。女は死を経験したことがなかった。それ故に死の存在を肯定することができず、とある物体に死を経験させることが背徳行為であるなどとは認識しなかった。ただ線路上の乳母車、その聖なる芸術を見据えるのみであった。女が処女だった頃の果実のような頬と深く染められた黒色の瞳は驚くほど美しかった。彼女の愛情を欲する者も少なくはなかった。しかし純潔を奪う邪悪な行為によってそれは腐敗し、濁り、彼女のそのどんな宝石にも替え難い悠久の愛情も、接吻も、その肌も肉体も、わずか数枚の札束の価値しかなくなってしまった。太陽が地平線に沈もうとしている。息が白くなるような冷たい日だった。蝋色の煙を噴き出しながら汽車は線路上を駆けてきた。汽車とは無情なもので引かれた線路の上をただ辿るのみでほんの少し逸れることさえ許されない。回転する車輪が金属と擦れる音がこちらへ近付いてくる。黒く仰々しいその機関車を女は完全なる死の象徴であると認めていた。生を奪う行為、その最も名誉な行為を女はその魔法の機関車に譲った。汽車は線路上の乳母車を確認するとすぐさま甲高い絶叫を放ち自らの速度を落としにかかった。しかしどれほど強く車輪に歯止めをかけても、汽車は乳母車の手前で止まることなどできないことを女は知っていた。その死の慟哭に誘発されたように籠の中から悪魔の泣き叫ぶ音が聞こえた。耳を塞ぎたくなるほどの不快な音だ。汽車は暗黒の煙と死の慟哭を連れてその芸術的破壊を創造するのに充分な速度で悪魔を乗せた美の揺籠に衝突した。花びらが宙を舞い、色とりどりの硝子は橙色の光を浴びて煌めき、真紅の液体が飛散し彩った。それは最も美しい刹那の絵画であった。女は一瞬にして無限の快楽を味わったのだ。女は死の存在を絶佳として肯定した。この世で唯一の完全な美を独り占めにしたのだ。これ以上の幸福があるだろうか。女の頬は釣り上がり漏れる笑声を堪えることができなかった。辺りは紅く染まり飛び散った肉片には硝子の欠片が突き刺さり花びらが添えられた。女は砕けた燭台の皿の部分を拾い、用意していた蝋を取り付け火を灯し、人生は美しくなければ、そう呟いた。正義の完成である。芸術は狂気を孕まなくてはならない。時に死は最も美しい芸術の形であるからだ。美しく彩られた死を目撃したものはその魅力に取り憑かれ逃れることはできない。太陽が堕ちると硝子の破片は冷たい風を受けて揺れる燭台の炎を映し静かに紅い涙を流した。

架橋の反映

 

  

    海の端というか海の終に架かる橋の上を歩く二人がいた。気温は低かった。二人はおそらく恋人の契を交わしたか交わしていないかともかく至極親密な関係であろう。その日は天気がよくて星空を覆う雲というか星空に覆われる雲というかとにかくそのあたりから雫か露か涙かおそらく球形の液体が絶えず落ちてきていた。二人が歩きながら飲んだものは缶ビールであった。それは第二でも第三でもなく第一のビールだ。太陽がちょうど死角に入ろうかとする時刻である。円形の海を囲う陸の向こう側にキリンの群れが揃って首を傾けた。車輪が回転していた。高速で回転する車輪が鉄の塊を乗せ轟音と突風を引き連れ次々に二人の横を過ぎ去っていった。それは音と無音を同時に連れてきた。遠くでまたとてつもなく大きな車輪がひとつゆっくりと回転していた。車輪の端には等間隔でゴンドラが取り付けられておりそこに人が乗るらしい。車輪は彩られた光を放ち、海の端というか海の終の水面がそれを反射していた。青や赤や、色色な色の絵の具を一滴ずつ水上に落としたように滲んで、ぼやけて、風がそれを揺らしていた。車輪のまわりには高く聳える人間の巣がどこまでも連なっていて、細い筆の先でそっと触れたくらいの小さな光が不規則に光っていたり光っていなかったりしていた。それが遥か彼方まで続いている。その一枚の絵画の中でも車輪は一際美しく輝いていた。虹色に光を放つ車輪は彼のゴンドラにかなりの頻度で恋人同士である人間の二人組を乗せるという。恋人たちは綺麗な夜の景色に酔いしれるだろう。そして恋人たちは虹色の橋とその流線形の光を目にするのだ。海の端というか海の終に架かる虹色の橋の上を歩いていた。美しいものは時に視界に入らないほど近くにある。遠くに焦点を合わせるあまり見失ってしまうことがある。ゴンドラの中の恋人たちは虹色の車輪を見ることができず、虹色の橋を渡る者にはその流線形の光を見ることができない。ただ手の中にあるカメラだけがそのことを知っている。遠くの光に向けたはずのレンズがいつの間にかわずか隣にある最も美しいものを写していた。それが最も大切なものであった。第二でも第三でもなく第一に大切なものだ。それは流線形の光を浴びてその瞬間に存在したあらゆるものの中で最も美しかった。ただ海の終というか海の始まりの水面が虹色の光を映し揺れていた。

夏休みの島

 この島の海はすべてソーダ水です。この島は毎日が水曜日だけど、ここはずっと夏休みなのでいつもお休みです。この島ではゆったりと時間が流れます。この島はすべてがまっしろです。

 ある日、貝殻を集めながら白い砂浜をお散歩していると、自動販売機さんが元気に話しかけてくれました。
 「お嬢ちゃん、今日はとくべつ暑いから喉が渇いたろう。ジュースでも飲んで休憩しないかい」
 「あら自動販売機さん、ごきげんよう。今日も暑い中ご苦労さま。そうね、ちょっぴりやすんでいこうかしら」
 「そうかいそうかい、いらっしゃい。サイダー、ラムネ、ソーダ水、なんでもそろっているよ。どれにするかい」
 「あら、どれも同じにみえるけれど……。それじゃあこのお腹がくびれた瓶のをひとつくださいな」
 「まいどあり」
 そうして貝殻を三枚あげると、自動販売機さんはお腹をぱかと開けて、瓶を手渡してくれました。透明な玉をカタンと押し込むと、プシュと海の水が溢れ出してきました。それを慌てて口にふくんで、ほっぺたいっぱいにふくれたソーダ水をごくりと飲み込むと、ますます元気になって、また歩きたくなってしまいました。
 「お嬢ちゃん、もう行くのかい」
 「今日はとってもお天気がいいから」

 今日ものどかで静かな島をのんびり歩きます。誰かが窓を開けてピアノを弾いているのが遠くから聞こえてきます。聞いたこともないのにどこか懐かしい音色でした。空にはわたがしのような入道雲が浮かんでいてとってもおいしそうです。そうして島を半周くらいしたところで、しゃぼん玉がとつぜんわたしの目の前に浮かんで、それからぱっとはじけて消えてしまいました。しゃぼん玉がやってきた方向を見ると、ひとりの少年と目が合ったのです。少年はわたしよりもすこし大きくて、髪の毛はまっくろで、お月様のような綺麗な瞳をもっていました。
 「何をしているの」わたしは尋ねました。
 「しゃぼん玉のひとつひとつに名前をつけているんだ」少年がそう言うと、海からやってきた甘い風が吹いて、わたしと少年の間のしゃぼん玉がいっせいにはじけました。少年は輪っかに息を吹きこむと、輪っかは透明で七色の球体をたくさん吐き出しました。
 「あれがビリー、あれがマクマーフィ、なんてね」少年はひとつひとつ指をさしながら名前をつけてゆきました。最後にわたしのことを指さして「君は」と言いました。そのとき、どうしてだかそれがわたしに対しての言葉だとは思えなかったのです。わたしは手に持っていた瓶に口をつけて中の液体を飲みほしました。そうすると瓶の中で海色の球体がカランと音をたてました。
 「これはなんですか?」わたしは少年に尋ねました。
 「それは海のかけらさ」少年はわたしに言いました。
 瓶の底を空に向けると、瓶はその球体をカタンと吐き出しました。それを海の方へかざしたときに初めて、海がどこまでもどこまでも続いていることに気がついたのです。そしてわたしは少しだけ、海の向こうへ行ってみたくなったのでした。
 「満月がいっとう綺麗な日に、はじけた波が飛び散ってできた水玉が、満月の真似をしてそのまま固まっちゃったのがそれだって、聞いたことがあるんだ」そう言って少年も海の方へ視線を向けました。

 海の結晶をだいじにポケットの中へ入れて、しばらく歩くと、今度は送水管さんに出会いました。送水管さんはとっても大きなふたつの目をもっていて、背も高く、いつもタキシードを着ている島いちばんの紳士です。
 「送水管さんこんにちは」
 「ごきげんようお嬢さん、おつかいですか?」
 「いいえ、ただのお散歩よ。そうだ、送水管さんに教えてほしいことがあるの」
 「そうですか、なんでしょう、わたしの知っている限りのことなら」
 「海の向こうにはなにがあるのか、知りたいの」わたしがそう言うと、送水管さんは手を目の下に当ててうーんと唸ってしまいました。
 「わたしは生まれたときからこの島にいますので、海の向こうに何があるのか存じません。ごめんなさい。それに、海の向こうに何があるのかなんて考えたこともありませんでした」
 送水管さんでも知らないなら、わたしが知らないのも仕方ありません。しかし、ますますわたしは気になって、ポケットの上から球体を握りしめました。
 「そうですね、丘の上の時計台さんに聞いてみてはいかがでしょうか。あの方なら知らないことはないはずです。よかったらわたしが丘の上までエスコートしましょう」
 「本当ですか?ありがとう」わたしと送水管さんは時計台さんのところへ向かうことにしました。

 ふたりで丘の上を目指して歩いていると、今度は冷水器さんに会いました。
 「冷水器さんこんにちは」
 「なんだお前らふたりして、こんなところ何もないぞ」冷水器さんはとてもクールな方です。
 「時計台さんのところへ行くの」
 「時計台?あんな老いぼれに何の用があるんだ」
 「聞きたいことがあるの。時計台さんなら知らない事はないと思って」
 「聞きたいこと?わざわざ丘を登ってまで知りたいことがあるのか?」
 「そう。海の向こうにはなにがあるのか知りたいの」
 「海の向こう?それはつまりこの島から出たいってことか?」わたしははっとしました。海の向こう側を見るためには、この島から出なくてはならないことに気付いたからです。
 「そういうことじゃないけれど。でも見たくなったのです」
 「俺は知っているぜ、海の向こうに何があるのか、そしてどうしたら向こう側に行けるのか」
 「本当ですか?教えてください!」
 「いいだろう、ただし、俺を持ち上げられたらな。俺を持ち上げられたら海の向こうに連れていってやろう」それを聞いてわたしは冷水器さんの足元を掴んで力いっぱい持ち上げようとしましたが、びくともしません。
 「お嬢さん、私も手伝います」送水管さんも力を貸してくれました。
 「だめだ、ひとりで持ち上げられなければだめだ。意味がない」冷水器さんはとてもクールな方です。わたしたちは先を急ぐことにしました。

 時計台さんはわたしが生まれるずっと前から、この島のいちばん高いところから島全体を見守ってくれています。やっとの思いで時計台さんのところへたどり着くと、鐘をごーんと鳴らして歓迎してくれました。
 「時計台さん、知りたいことがあってここまで来たの」
 「おや、綺麗なお嬢さん、知りたいこととはなんだね」
 「海の向こうに何があるのか知りたいの」
 「海の向こうまで行ってみたいのかい?」
 「行ってみたい!海の向こうへ行ってみたいわ!でもこの島から出るのはちょっぴりこわいけれど」
 「いいかい、君もいつかこの島から出てゆく日がきます。それは君が大人になるときなんだ」
 「大人になるってどういうこと?」
 「この島から出たいと思ったら、それが大人になるってことさ」
 「わたしにも大人になる日が来るの?」
 「必ず来るさ。ただ、急いではいけないよ」
 「大人になったら、この島を出ていかなくてはならないの?」
 「そうだよ、大人になったらこの島にいてはいけないんだ」


 昼なのに大きな満月が、まぶしいほどに青い空に浮かんだある日、岬に島の住人が集まっていました。しゃぼん玉の少年が島を出る日になったのです。時計台さんも丘の上から岬まで下りてきて、島全体に響くほど大きな音で鐘をごーんと鳴らしました。
 「海の向こう側へ行くの?」わたしは少年に尋ねました。
 「海の向こう側へ行くんだ」少年はわたしに言いました。
 「大人になったってこと?」
 「きっとそうだ。僕も今は、やっと大きな気分になったんだ」
 「わたしも行きたいわ」
 「今はだめだ。でも、待ってる。待ってるよ、カッコーの巣の上で
 「会いに行くわ、おしゃれな服を着て、きっと会いに行く」
 少年、いやかつて少年であった彼は、冷水器さんを頭の上まで持ち上げて、この島を出ていったのでした。ポケットから海のかけらを取り出して満月に重ねてみると、ほんのりあまい海の香りを乗せた風がそっと頬をなでて、また遠くの空へと夏を連れてゆきました。

ある日のこと

    きっとぼくら世界が虹色になったそんな世界でぼくら虹色になった。ある日の帰り道ぼくら帰ることをしていた。ぼくら帰ることをしていたのはただの帰り道だった。ぼくらそんな帰り道で頭の中にピアノの音を持っていた。ピアノの帰り道はそれでぼくら彩られた道をあるいた道はピアノに彩られた帰り道だった。そして橙色の球体がぼくらピアノの帰り道を橙色に照らしていた。ピアノの帰り道を橙色の絵の具かなんかでそれをたんまりつけた筆かなんかで塗ったなんかがぼくらピアノの帰り道で染めたのは橙色の球体だった。緑色の葉っぱたくさんつけた緑色のなんかがたくさん連なって大きな緑色のなんかになっていた。そのなかでもいちばんひとつだけ大きな緑色のなんかがあった。橙色の球体が橙色のなんかを塗ったピアノの帰り道にいちばんひとつだけ大きな緑色なんかの下でぼくらほっぺたが赤くなるような秘密をつくった。それはなんか橙色のピアノの音だった。それはなんか赤いほっぺたの帰り道でありぼくら秘密の緑色のなんかだった。透明な水みたいなんが流れてる長い青色のなんかにも橙色の球体が橙色の絵の具かなんかを一滴落として橙色がにじんでいた。それをぼくら緑色のなんかの下から眺めた。なんか透明ななんかが赤いほっぺたのあたりをそっと撫でて遠くへ行った。橙色のピアノがずっと鳴ることをしていた。透明ななんかを追ってずっと遠くまでこう視線を送ると水色のなんかがずっと遠くまで続いていてそこにも橙色の球体が橙色の絵の具かなんかを筆かなんかにつけてこう雑に塗りたくったみたいなんになっててそこに白色のなんかがいくつも浮かんでいた。橙色のピアノの帰り道はなんか大切な橙色のピアノの帰り道になった。ぼくら大きな緑色のなんかの下の秘密は大切なぼくら大きな緑色のなんかの下の秘密になった気がした。大切な橙色のピアノの帰り道で大切なぼくら大きな緑色のなんかの下の秘密はぼくらのほっぺたを赤くした。なんかすっごく細い黒色の糸が目の下についているんだけどなんかすっごく細い黒色の糸からなんか透明な結晶がなんか伝っていてなんかそれが橙色の球体が橙色の絵の具かなんかで本当に細い筆かなんかで橙色の絵の具をちょっと塗ったみたいになったそれは橙色にちょっと塗られた透明な結晶がなんかすっごく綺麗だった。すっごく綺麗だったのはなんか目の下についているすっごく細い黒色の糸を伝っている橙色にちょっと塗られた透明な結晶だった。それがすっごく綺麗だった。それがすっごく綺麗だったからぼくはそれを持って帰ろうとした。でも指がそれに触れる前になんか透明ななんかがその橙色にちょっと塗られた透明ななんかをさらっていった。ぼくらその透明ななんかを追っかけたけどなんかその透明ななんかはぼくらのこと残してずっと遠くまでいってしまった。透明ななんかが橙色にちょっと塗られた透明ななんかをさらっていった先には橙色の球体に橙色の絵の具かなんかを雑に塗りたくられた水色のなんかがあってそこに白色のなんかが浮かんでいた。そんなぼくら帰り道を帰っていた途中のちょっと帰るのをやめた帰り道だった。ぼくら橙色のピアノが大切だった。橙色のピアノの帰り道はぼくらが帰るただの帰り道で緑色のなんかの下で赤色のほっぺたの秘密をつくった。ちょっと帰るのをやめた帰り道は橙色で緑色で赤色で透明で青色で水色で白色で黒色のなんかだった。きっとぼくら世界が虹色になったこんな世界でぼくら虹色になった。

火曜の晩

    火曜の晩、地獄の判事である私は神秘不可思議な衝動を神から与えられた。正しく忌むべき罪人を裁く権利を手にしたに等しい。私は神より授かりし処刑の令状を片手に火曜の晩の酒場街を見回っていた。火曜の晩にはそれが火曜の晩であるにも拘らず、炎に集う害虫の様に醜い者達が蠢いていた。火曜の晩に集う者達をどれほど心の広い神ならば赦すことができるだろう。私はこの害虫共を一匹残らず殺傷する使命を与えられているのだ。背広を着た男、声の煩い女、乞食、悪臭を放つ老婆、耳障りな弦楽器を鳴らす浮浪者、目に入る人間は皆処刑の対象であった。そんな中、視界に入った瞬間に全身の血液が煮え滾るほど一際憎い害虫がいた。赤い髪の女だ。火曜の晩で赤い髪の女を見て殺さずにその場を後にできる者が果たしているだろうか。神は赤い髪の女を赦すことはできない。地獄の処刑人も判事も赤い髪の女を赦すことはできない。私は神の使いとして、地獄の判事として、火曜の晩の処刑人として、強く拳を握り、血管を浮かせ、赤い髪の女に近付いた。そしてもう一歩で私の拳がその顔面にぶつかるかというところで、赤い髪の女は私の明確な殺意の眼差しに気付き、駆け出したのだ。私の殺意は天に達していた。赤い髪の女への憎悪が渦巻きそれは神の意志となった。赤い髪を自らの血液で更に赤く染めてやろうと、握った拳を爪が手のひらに食い込むほど強く握り直した。腹を引き裂いて内臓を取り出し塩をかけてやれと、神の御達しだ。赤い髪の女は処女ではない、何故なら髪が赤いからだ。処女でない女は死なねばならない。そしてついに女の襟を掴んでやろうとしたところで、赤い髪の女は突如振り返って叫ぶように言った。なんですか、と。その時、私のいる世界は火曜の晩ではないことに気が付いた。そこは先程の火曜の晩の酒場街ではなく、人工的な白い光で満たされた絶望の空間であった。どういうことか足が竦み、赤い髪の女の顔面を殴って眼球を抉り髪を赤く染めることや内臓を取り出し塩を振り炙って食うことができなくなった。火曜の晩は火曜の晩ではなくなったのだ。いや私が今迄火曜の晩だと思い込んでいたものが実は火曜の晩ではなかったのかもしれない。赤い髪の女は再び私に背を向け歩きだした。それを追うことはもうできなかった。火曜の晩とは幻想だったのか。白い光に包まれた空間では、赤い髪の女はとても美しかったのだ。

信号

    歩く男は青色に光っては消え光っては消えを繰り返し、暫くすると赤ワインの海へ沈んだ。目の前を秒速三十万キロの光るものに引かれて時速六十キロの光らせるものが通過した。どこかで機械の鳥が一度鳴いたきり、洞窟の出口は閉ざされた。誰かが透明な釣り糸で電球を垂らしていた。脳は脚を動かす信号を止め脚を動かすのを止めるという信号を送った。色の売人が黒にほんのり青を混ぜた絵の具を洞窟の天井に塗った。誰かが吐き出した煙草のけむりが釣りをする誰かの電球を隠した。赤ワインの海へ沈む男がこちらをじっと見つめていた。赤ワインの男は手を動かさずに手招きをした。秒速三十万キロの光るものが時速六十キロの光らせるものを連れてきた。脳は確かに脚を動かす信号を送った。右脚は信号を受け取ると宙に浮いた。そして放物線を描いて再び地に落ちた。悪戯な泥棒がテトラポットから水素原子を盗んだり他のテトラポットとくっつけたりしたものや、皮膚を覆う板状の繊維を飛び越えて、氷のように冷たい氷のようなものがその体温を伝えた。洞窟の天井から液体が一つ頬に落ちた。洞窟の天井から液体がもう一つ今度は手のひらに落ちた。どこかで機械の鳥が一度鳴いた。皮膚に繋げられた黒い糸を伝ってまた別の液体が一つまた頬に落ちた。隠れていた白鯨がまた姿を現した。白黒の帆を靡かせた船がそれを追っていた。しかし少女が揺れない風鈴をいたずらに鳴らすように静かに息を吹きかける映像が光ではない別の光に似たものが信号となって瞼の裏のスクリーンに映し出された。そんなビー玉のひとかけらががわずかな時間の隙間にあった。脳ではない誰かが脚を動かす信号を遮断し脚を動かすのを止める信号を送った。視線と意識の先に血まみれの男が倒れていた。脳はひとつの泡沫に信号を送った。ひとつの泡沫はひとつながりの糸へ信号を伝えた。信号はひとつながりの糸を通って指先に辿り着いた。指先は赤いボタンに信号を放射した。赤いボタンに伝えられた信号は雪国のトンネルの中を駈けてトンネルを抜けた先で倒れている血まみれの男に寄り添った。時速ゼロキロの光らせるものは秒速三十万キロの光るものを引き止めた。色の売人は洞窟の地面に白い線をいくつか描いた。機械の鳥が今度は頭の上で鳴いた。洞窟はいつの間にかトンネルになっていた。少女は息を吹きかけるのをやめない。誰かが吐き出した煙草のけむりも、白鯨とそれを追いかける船も、少しずつ前へ進んだ。透明な釣り糸を垂らす釣り人の電球がほんの少し顔をだした。そんな映像がスクリーンに映し出された。脳は脚を動かすのを止める信号を止め、脚を動かす信号を送った。そんなビー玉のひとかけらがわずかな時間の隙間にあった。青色に光る男は再び歩き出した。

冷たい夜の

 

 

 夜道をひとり歩いていた。すると暗い道の端で溶けているひとりの少女がいた。

 「どうかしたのか」
 話しかけた。急いではいなかったためだ。

 「体が溶けてしまっているの」

 少女の体は溶けていた。既に腰から下は溶けてなくなっていた。うーん、と、僕は困ってしまった。体が半分も溶けている少女に出会ったのはこれが初めてであったためだ。先ほどまで少女の下半身であったはずの液体はどろどろでもとろとろでもなくさらさらとしていた。そうこうしている間にも、少女の体はどんどん溶けているようだ。

 「熱いか」
 溶けているということは、熱いのだろうと、僕は思ったのだ。

 「いいえ、不思議と熱くはないわ。むしろ冷たいの。夜のコンクリートは冷たいのよ」

 たしかに夜のコンクリートは冷たいために、少女は熱くて溶けているわけではないことがわかった。

 「僕は君がどうして溶けているのかを知らない。君は自分がどうして溶けているのかわかるか」

 「わたしも自分がどうして溶けてしまっているのか知らないの」

 それはそれは困った状況であったが、その時の自分は、例えば助けを呼ぼう、などという発想を持たなかったのだ。少女の体が半分も溶けてしまっているために、僕は腰を曲げて、視線をなるべく合わせた。その時初めて、少女と目が合ったのだ。

 「君はとても綺麗な瞳をしているね」
 少女はとても綺麗な瞳をしていた。

 「そうかしら、もしそうだとしたら、今日の月が綺麗だからだわ」

 空を見てみると、そこには古い喫茶店の照明のような月が浮いていた。

 「溶けてなくなったら、どこへ行くのだ。死ぬのか。消えるのか。それは悲しいことなのか」

 「わからない。でもどうしてだか、怖くはないの。それはきっと悲しいことではないわ」

 少女はゆっくりと目を閉じて、ゆっくりと目を開いた。
「きっとわたしは、帰るのだと思う」

 夜の風が頬の液体を拭った。少女はもう胸まで溶けていた。僕は膝を地面につけて、両手をコンクリートに置いた。

 「帰るって、どこに」

 「それはわからない。でもきっとそうだと思う。そこはきっと帰るべき場所だから」

 夜のコンクリートは冷たかった。コンクリートに触れた手から、理由のわからない悲しみが全身に伝わった。それは少女の悲しみなのか。しかし、少女は悲しいことではないと言っていた。それでは、これは何の悲しみなのか。少女はついに顔だけになった。少女は帰ると言った。少女はどこへ帰るのか。僕はどこへ帰るのか。

 少女の透けそうなほど白い頬に僕はとつぜんに触れてみたくなって、僕は手を伸ばした。指の先が触れた瞬間に、少女の頬はこぼれ落ちた。それと同時に僕の胸のポケットから、たばこの箱がぽとりと落ちた。

 「たばこをいただいてもいいかしら。溶ける前にいっぽん吸いたいの」

 「君はたばこを吸うのかい」

 僕はコンクリートから箱を拾って、中にひとつだけ入っていたたばこを取り出し、少女の口元へと運び、マッチ棒をこすってその先の火をたばこの先に近づけた。

 少女がひとつ大きく息を吸ったのを聞いて、僕は少女の口からたばこを受け取り、自分の口へと運び、ふっと息を吸った。

 「君はいったい、誰なのだ」

 「それでは、あなたはいったい、誰なの。わたしは、わたしが誰なのかわからないの」

 「それでも生きているの。体が消えても、きっと生きてゆく」

 少女はまっすぐに僕を見つめた。
 「わたしはあなたを見ていて、あなたがわたしを見ている。それだけできっと、ぜんぶだと思うの」

 胸のあたりがむずかゆくなった。自分はいったい誰なのか。どうして生きているのか。生きるとはどういうことなのか。それは、誰にもわからないことなのかもしれない。しかし、それはきっと、誰にもわからなくていいことなのだ。

 「僕も連れて行ってくれないか」

 「私に腕があったなら、あなたの手を握ることはできたわね」

 「もう会うことはないだろうか」

 「もう会うことはないと思うわ」

 「さようなら」
 「さようなら」

 そして少女は姿を消した。悲しくはなかった。僕はこれからも、今までと同じように生きてゆくだろう。しかし冷たい夜のコンクリートの感触を、きっと僕はまた思い出す。

 水たまりは月を映し、その瞳は僕を見つめていた。僕は最後のたばこのけむりを吸った。

 

夏になってしまった

暑い。

 

    この季節になると地元で花火大会があって、毎年家の窓からそれをみる。性別の違う人と一緒に花火をみようと誘ってみたりしたこともない。窓から外を見ると目の前には僕が通っていた小学校の中庭やうさぎ小屋があって、花火大会の日はその上に大きな花が咲いた。しかし、何年か前に工事があって、そこには大きな体育館が完成してしまった。今では低めに打ち上げられた火の玉は下半分が遮られてしまったりする。背は高くなったのにおかしいね。それでも一際高く打ち上がる花火はしっかりと、窓の額縁には収まりきらないほど大きな花を咲かせてくれる。まっ黒い画用紙を鮮やかに彩ってくれる。ちなみにうさぎは僕が小学校にいたときにみんな死んだ。

 

 

暑い。夏になってしまった。

 

    昔は夏には海に行った。最近は行かない。海よりも旅館の方が好きだ。特に旅館のエレベーターの匂いが好きだ。旅館のエレベーターって大抵どこの旅館でも「旅館のエレベーターの匂い」がする気がするけどあれはどうしてだろう。今年は久しぶりに夏の海へ行けたらいいなと思う。 

 

    今年の夏も、氷を砕いて色のついた甘い水をかけて食べたいな。水風船を投げて遊ぶなんてことはしなくなってしまったけれど。風鈴の音がどこかで鳴っているならまだ生きていようかな。めでたしめでたし。

星間飛行

    ツーツーやあやあ久しぶり、こんばんはどうだいそっちの様子は、暮らしはどうだい食っているかね、そっちとはこっちかい地球のことかね、まあまあこれはこれは遠くからわざわざ、だけどこっちはこんにちはだねいやおはようございますかな、なんて地球はどうかな昼かな夜かな、地球に昼も夜もないかい、僕のいたところはどうかな、昼かな夜かな、妹は元気かな、いや妹なんかいたっけな、犬はどうかな猫だっけなウサギかもしれないなそもそもペットなんていたっけな、みんな元気かな、マクマーフィは相変わらず元気かな、ビリーも恋人とうまくやっているかな、そんなやつ本当にいたっけな、ところでここはどこだろう僕はどこにいるんだろう。

    ツーツーやあやあ久しぶり、こんばんはそっちはどうだいたらふく食べているかい、君の好きだったいちごもぶどうもまだたくさん畑でとれるのかい、魚はどうだい泳いでいるかい川の水はまだ透き通っているかい、まだウサギがお庭に顔を出すかい、かわいそうだから食べてやらないでくれよ、ところでどうだいこの電波は、届いているかい君の星まで、ところでどうだいこの声は、聞こえているかい君のところまで、かなしいきぶんになったとき、まだなみだをながすのかい君の星では、誰かといっしょいいるときには、ちゃんと心がぽかぽかするかい、ところで僕はどうだろう、もう誰とも会えないのかな。

   ツーツーやあやあ久しぶり、こんばんは調子はどうだい悪くないかい、まだたくさんの木が生えているかい、たくさんの葉がついているかい、冬になったらちゃんと落ちるかい、春になったら花を咲かすかい、空はどうだいまだ青いかい、空気はいつもおいしいかい、時には雨が降るのかい、そして虹が掛かるのかい、ずっとずっと海はつながっているかい、どこまでもどこまでも広がっているかい、そこに落ちる夕日は綺麗かい、それを大切な人と見るのかい、ところで僕は死ぬのかな、ちゃんと君のところへ帰れるのかな。

    ツーツーやあやあ久しぶり、こんばんは僕のこと覚えているかい、夜になると月が浮かぶのかい、それは何よりも丸いのかい、水面に映ってぼやけるのかい、それでも必ず明日がくるのかい、それはいつも明るいのかい、時には悲しい夜がくるのかい、だれかに会いたくなっちゃうのかい、誰かに電話したくなっちゃうのかい、ひとりきりだとせつないのかい、ところで僕は必ず帰るよ、お土産もちゃんも持って帰るよ、なんてダメかもしれない苦しいんだ、こっちにはなにもないけれどひとりきりだとせつないんだ、悲しいんだ、やるせないんだ、一緒だね。

    ツーツーやあやあ久しぶり、こんばんはこの声ちゃんと届いているかい、僕は君とまた会えるのかい、僕は君にきちんとサヨナラが言えたかい、寂しくないかい元気かい、ちゃんと笑えているかい、ちゃんと涙を流せているかい、それじゃあ僕はそろそろいくね、どこかでまた会えたらいいな、ちゃんと届いているかい聞こえているかい、幸せになってねさようなら、ところで地球はまだちゃんと青いかい。

五月は蘭淡のために

    ぽかぽかというより陽射しの針が痛いこと痛いこと、すっかり木々は青々と、茂って、ああ、これは夏だなと。それは小鳥たちが恋人を呼ぶ声であったり、風が木々を奏でる音であったり、それはそれは暖かな憂鬱が。海のある街に行ってみたいとそう感じる季節になった。しかし夏が美しいのって想像上だけで、若しくは記憶の中だけで、実際は気が滅入る滅入る、滅入るだけ。コンクリートに溶けてなくなりそうなからだを、アイスを溶かして誤魔化す、そんな魔法。鶴でも折るかと色紙を折ってみても出来上がるのは色のついた燃えるゴミだけで、ああもう鶴の折り方すら忘れてしまったのかと。でもきっとあのころは魔法が使えて、色紙を鶴に変身させることができたんだ。寂しくてどうしようもなくて、深呼吸する。魔法が使えて、神様もいた、あの頃に戻りたいだなんて。待っていれば夜がくるし、朝がくるし、まあいいか。雨の季節の入り口が見えてきて、ああこのままどうなるのだろうかと。時計の針がずれていることに気付いてなおす。そう言えばランタンってずっと日本の言葉だと思い込んでいて、それなら当然、漢字もあるのだろうと思っていたのだけれど、どうしても思い出せなくて、実際にそれを大きなクモの巣にかけてみると、なんと外国の言葉で、日本語では片仮名でしか表記されないんだって。でもランタンって可愛いよね。どうしてもお腹が空いて深夜のラーメン屋に入ったんだけど、財布の中にアルミホイルと青銅のそれが数枚はいっているだけで、本当に白銅の一枚すらはいっていないことにコップにお冷を注がれてから気付いて、それをひとくちだけ口に入れてから店員さんの目を盗んで店を出た。あのときは罪悪感と寂しさと果てしない虚無感で思わず涙を流してしまった。五月ってやっぱり、絶望ってほど大袈裟じゃないけれど、理由のわからない涙が流れる季節なのかな。蘭って冬の花らしい。まだ夏の扉を叩いたばかりなのにもう冬が恋しくなって、それはそれで嫌いにはなれない。淡い淡い青と、静かな夜。五月は愛しいほどの憂鬱であった。

息止め

    マフラーで君を絞め殺して雪の下に埋めた。片方の手袋をなくしたから。雪の様にまっしろな君の美しい顔には血の一滴すら感じられなかった。それは太陽の見えない日。かじかんだ手を温めあった。長靴を履いてふたり学校へ行った。水滴のついた窓硝子につくったふたりだけの文字。その瞬間そこはたしかにわたしと君だけの空間だった。時間は確かに吹き飛んで永遠になった。雪だるまをつくった。ほっぺたをくっつけ合って冷たいって笑った。アイスを買って捨てた。君はマフラーも手袋も持っていなかった。ふたりでひとつのマフラーをして。わたしの手袋を片方はめて。手袋のない手はふたりを繋いで。君の左手とわたしの右手。幸せとは君の体温だった。きっとその時ふたりはひとつになった。その日手袋を片方なくした。君が寒くないように首にはマフラーを巻いて。左手に手袋をはめて。静かに君を雪の下に寝かせた。ふたりだけしか知らない文字を雪に書いた。ただ冬が終わるのが怖かった。