冷たい夜の
夜道をひとり歩いていた。すると暗い道の端で溶けているひとりの少女がいた。
「どうかしたのか」
話しかけた。急いではいなかったためだ。
「体が溶けてしまっているの」
少女の体は溶けていた。既に腰から下は溶けてなくなっていた。うーん、と、僕は困ってしまった。体が半分も溶けている少女に出会ったのはこれが初めてであったためだ。先ほどまで少女の下半身であったはずの液体はどろどろでもとろとろでもなくさらさらとしていた。そうこうしている間にも、少女の体はどんどん溶けているようだ。
「熱いか」
溶けているということは、熱いのだろうと、僕は思ったのだ。
「いいえ、不思議と熱くはないわ。むしろ冷たいの。夜のコンクリートは冷たいのよ」
たしかに夜のコンクリートは冷たいために、少女は熱くて溶けているわけではないことがわかった。
「僕は君がどうして溶けているのかを知らない。君は自分がどうして溶けているのかわかるか」
「わたしも自分がどうして溶けてしまっているのか知らないの」
それはそれは困った状況であったが、その時の自分は、例えば助けを呼ぼう、などという発想を持たなかったのだ。少女の体が半分も溶けてしまっているために、僕は腰を曲げて、視線をなるべく合わせた。その時初めて、少女と目が合ったのだ。
「君はとても綺麗な瞳をしているね」
少女はとても綺麗な瞳をしていた。
「そうかしら、もしそうだとしたら、今日の月が綺麗だからだわ」
空を見てみると、そこには古い喫茶店の照明のような月が浮いていた。
「溶けてなくなったら、どこへ行くのだ。死ぬのか。消えるのか。それは悲しいことなのか」
「わからない。でもどうしてだか、怖くはないの。それはきっと悲しいことではないわ」
少女はゆっくりと目を閉じて、ゆっくりと目を開いた。
「きっとわたしは、帰るのだと思う」
夜の風が頬の液体を拭った。少女はもう胸まで溶けていた。僕は膝を地面につけて、両手をコンクリートに置いた。
「帰るって、どこに」
「それはわからない。でもきっとそうだと思う。そこはきっと帰るべき場所だから」
夜のコンクリートは冷たかった。コンクリートに触れた手から、理由のわからない悲しみが全身に伝わった。それは少女の悲しみなのか。しかし、少女は悲しいことではないと言っていた。それでは、これは何の悲しみなのか。少女はついに顔だけになった。少女は帰ると言った。少女はどこへ帰るのか。僕はどこへ帰るのか。
少女の透けそうなほど白い頬に僕はとつぜんに触れてみたくなって、僕は手を伸ばした。指の先が触れた瞬間に、少女の頬はこぼれ落ちた。それと同時に僕の胸のポケットから、たばこの箱がぽとりと落ちた。
「たばこをいただいてもいいかしら。溶ける前にいっぽん吸いたいの」
「君はたばこを吸うのかい」
僕はコンクリートから箱を拾って、中にひとつだけ入っていたたばこを取り出し、少女の口元へと運び、マッチ棒をこすってその先の火をたばこの先に近づけた。
少女がひとつ大きく息を吸ったのを聞いて、僕は少女の口からたばこを受け取り、自分の口へと運び、ふっと息を吸った。
「君はいったい、誰なのだ」
「それでは、あなたはいったい、誰なの。わたしは、わたしが誰なのかわからないの」
「それでも生きているの。体が消えても、きっと生きてゆく」
少女はまっすぐに僕を見つめた。
「わたしはあなたを見ていて、あなたがわたしを見ている。それだけできっと、ぜんぶだと思うの」
胸のあたりがむずかゆくなった。自分はいったい誰なのか。どうして生きているのか。生きるとはどういうことなのか。それは、誰にもわからないことなのかもしれない。しかし、それはきっと、誰にもわからなくていいことなのだ。
「僕も連れて行ってくれないか」
「私に腕があったなら、あなたの手を握ることはできたわね」
「もう会うことはないだろうか」
「もう会うことはないと思うわ」
「さようなら」
「さようなら」
そして少女は姿を消した。悲しくはなかった。僕はこれからも、今までと同じように生きてゆくだろう。しかし冷たい夜のコンクリートの感触を、きっと僕はまた思い出す。
水たまりは月を映し、その瞳は僕を見つめていた。僕は最後のたばこのけむりを吸った。