ゆるふわ日記

ゆるふわだよね。

まどろみ

    憂鬱な春が終わって憂鬱な夏になるのを感じる。春は失う季節だって誰かが言っていたね。生まれてからずっと春で、失うことでしか幸せになれない人のことをどうか忘れないで。夏の雲は流れると言うより泳ぐかな。だからそれは水しぶきで、夏の雨は嫌いじゃないかな。青春ってきっと、自転車を押して歩くことだったり、雨宿りだったり、影だったり、橙色だったり、するんだろうな。ずっと、綺麗なものは綺麗なままで。それは、硝子が割れる音だったり、時計の秒針を逆に回すことだったり、乾いてもいなければ濡れてもいない。冷たいけれど温かい。誰かが窓を開けてピアノを弾いているってことなんだ。君は教科書なんか読んでいない。ただその先には無形の美しいものがあった。君の目はただの水晶玉で、でもそれは紛れもなく綺麗なもので、色はなく、無限の透明さ。目の前でどんな悲劇が起ころうと決して濁ることはなく、追っても追ってもその先を捕まえることはできない。きっとそこには意味のない完璧な世界があるんだ。例えこの先ずっとずっと不幸でも、消えないものがひとつだけあればいい。蜜柑色の夏が始まる。年を重ねて、手の届かない場所は減った。しかし距離は縮まっても決して触れることのできない雲の様な。あそこを泳ぐ雲の様な。向日葵が咲くことだけが夏なんだ。森で少女を見たんだ。かつて僕たちのおもちゃは、あまりにも青い空とあまりにも強い陽射だけで十分だった。どうか儚さに気付かないでいて。風鈴の音が聞こえなくなる前に。自分の目に映るものだけが世界だから。眠りについて。時間を憎む前に。君の視線の先だけが夏だ。このままずっと夢の内容を語り合おう。あと少しだけ起きていよう。憂鬱なまどろみに包まれながら。夏の始まりは限りなく透明な橙色だったろう。

落花

    二本の鎖に繋がれた板が揺れると二秒前まで静止画であったその風景は筆を持って今度は私の心をカンバスへと変えてしまうが、時に荒々しく、時に静かに、しかし如何の場合でも確かに、その筆の毛の一本一本は鋭い針金に成り得るのだ。緑色の炎に焼き尽くされたそのあまりにも残酷な眺めに慈悲もなく天は致命的な一撃を落とし私は為す術もなくその場に膝から崩れ落ち心という曖昧なそれは木端微塵に吹き飛びただ時間を恨むことしかできないのだ。絶望は強靭な力を持ってして私の足を掴み決して離すことはなく少しずつ私を飲み込んでゆく。一秒たりとも戻ることはできないのだ。風は温度によって、また明るさによってその表情を変える。明るく温かい憂愁。暗くて冷たい恐怖。子供、残虐な物体。穢れを知らないもの、私の感情を蝕み破壊し冷たく錆びた鉄塊へと変えてしまう。私はこんなにも汚れてしまった。心は腐り千切れて地面に落ちる。口から醜い憎悪を吐いて音の無い号哭は誰の耳にも入らない。行き先を失った途方もない憎しみだけが頭の中で蜷局を巻いている。その蟠りは日を追うごとに大きくなり私の体長をも遥かに越える怪物と化し、私を丸呑みにした。後に残ったのは真黒に染まった怨悪のみだった。私の触れたところから鎖は錆びて朽ち果てていった。目からは液体が溢れ出る。しかしかつて透明であったはずのそれは濁り穢れを含む。時間を憎む。板に腰掛けるいつかの少女。風がそれを揺らす。少女の背中には翼が生えていて、優しく柔らかく、しかし逞しく空気を切ることができる。少女は空を飛ぶことだってできる。清く穢れの無い瞳は、時として刃物のように鋭く、私の胸の辺りを深く突き刺す。緑色の絶望は桜色の憂鬱へと変わる。花が散ったら永久に眠ろう。

    


    花屋の小娘を撲殺しようと店先まで出向いた。小娘はちょうどひとりで店番をしている最中である。小娘は私に気付くと緊張と恐怖が入り混じった何とも醜い顔面をこちらに向けた。拳を固く握りその既に腫れ上がった顔面を思い切り叩いてやる。店先に甲高い絶叫が響き、そのあまりの不快さに更に小娘の腹を殴りつけた。小娘は悲鳴を撒き散らしながら目から透明な液体を流した。ああ、美しい、この醜悪な小娘も、涙だけはこんなにも美しい。小娘はいつもの通り赦しを乞う文句を垂れ流しながら、まるで恐怖と苦痛しか感じられない眼差しをこちらに向ける。それがあまりにも憎らしくて私は彼女を叩く拳を止めることができないのだ。ああ、かつての、花屋の上品なお嬢さんはもう存在しないのか。女性は処女であるからこそ燦々と輝くことができるのだ。処女を失った途端に、どんな女性でも悪臭を放つ老婆へと忽ち変身してしまうのだ。この小娘を真白な百合の花から黒薔薇へと変えてしまったのは私だが、その瞬間から私の彼女への愛情はすっかりと消え失せてしまったのだ。
    私の腕も疲弊し彼女の浅ましい顔を見るのにも嫌気が差し、殴るのを止め花瓶を蹴散らしていると、背後でひとつの奇跡が起こった。小娘が立ち上がる気配があった。振り返るとそこには今までとはまるで別人の彼女が立っていた。生気を漲らせ、まっすぐにこちらを見つめていた。その激しい憎悪と憤怒に満ちたトリカブトの様に攻撃的な彼女の眼差しを私は初めて見た。私は怯んで体は土の様に固くなり、その場から動くことも言葉を発することもできなかった。彼女は両手に抱えた大きな植木鉢で、私に復讐の一撃を与えた。
    目が覚めた時には私は泥にまみれて天を仰いでいた。嬉しくてたまらなかった。彼女のあの眼差しを、私は忘れることができないだろう。